August 07, 2005

死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。

 原 民喜は、原爆にあたることの凄まじさを文章に刻み続けた。

「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。
僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。
僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。」 (「鎮魂歌」より)

「…世界は割れていた。僕は探していた。何かをいつも探していたのだ。廃墟(はいきょ)の上にはぞろぞろと人間が毎日歩き廻った。人間はぞろぞろと歩き廻って何かを探していたのだろうか。新しく截(き)りとられた宇宙の傷口のように、廃墟はギラギラ光っていた。巨(おお)きな虚無の痙攣(けいれん)は停止したまま空間に残っていた。崩壊した物質の堆積(たいせき)の下や、割れたコンクリートの窪(くぼ)みには死の異臭が罩(こも)っていた。真昼は底ぬけに明るくて悲しかった。白い大きな雲がキラキラと光って漾(ただよ)った。朝は静けさゆえに恐しくて悲しかった。その廃墟を遠くからとりまく山脈や島山がぼんやりと目ざめていた。夕方は迫ってくるもののために佗(わび)しく底冷えていた。夜は茫々として苦悩する夢魔の姿だった。人肉を啖(くら)いはじめた犬や、新しい狂人や、疵だらけの人間たちが夢魔に似て彷徨(ほうこう)していた。すべてが新しい夢魔に似た現象なのだろうか。廃墟の上には毎日人間がぞろぞろと歩き廻った。人間が歩き廻ることによって、そこは少しずつ人間の足あとと祈りが印されて行くのだろうか。」 (「鎮魂歌」より)

「遠き日の石に刻み 砂は影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」

「ふと僕はねむれない寝床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寝床に侵入してくる。僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。僕は僕を生存させてゐる地球に呼びかけてみる。すると地球の姿がぼんやりと僕のなかに浮かぶ。哀れな地球、冷えきつた大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億万年後の地球らしい。

 僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮んでくる。その円球の内側の中核には真赤な火の塊りがとろとろと渦巻いてゐる。あの鎔鉱炉のなかには何が存在するのだらうか。まだ発見されない物質、まだ発想されたことのない神秘、そんなものが混つてゐるのかもしれない。そして、それらが一斉に地表に噴きだすとき、この世は一たいどうなるのだらうか。人々はみな地下の宝庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかつて……。

 だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉砕されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は随分昔から夢みてゐたやうな気がする。」 (「心願の国」より)

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August 03, 2005

Actionの意味を問う

「PDCAを回す」と人は言う。計画(Plan)をして実行(Do)する。その結果をチェック(Check)してアクション(Action)を起こす……。当たり前のことを英語の頭文字で表現しているだけである。いまさら議論など無用…と思う人が多いかもしれない。しかし、日本人はこのPDCAの意味をどう理解しているのだろうか?「アクション」とは何なのか?「計画」とは何なのか?素朴な疑問を抱くようになった。発端は、経営の一端を担う幹部社員たちの「アクション項目を決めて実行しよう」という声とその後の結果にあった。経営品質向上を目指したかけ声、意気込みは大切なことであり、それがリーダーシップの現われでもある。

しかし、半年たってもアクションがなく何も始まらない。会議の前に思い出したように「やらなくては…」と、義務感とあせりを感じる幹部は良いほうである。提案されたアクション項目というのはたくさんある。しかし、いつまでに誰がなにをなぜやるのか?やるとどんな効果が期待できるのかが見えない。はっきりと見えなくても良い。所詮、仮説でありこれを検証して改善していくプロセスが大事なのである。この新しいプロセスが実行できないのはどういうことなのか?また全体最適化に向けた合意形成のための対話が少ない。この「対話」がないということは「改善」がない、「進歩」がないということでもある。

なぜ前に進まないのかを考えていて思い至ったのが「アクション」とは何かについての共通理解がないのではないか?ということである。アクションの企画ができないのではないか?PDCAと口では言うがその実態(プロセス)の共通認識がないのではないか?という疑問がわいてきた。幹部社員を対象としたある研修で、受講者に問う…「PDCAでいうActionとはなんですか?」すると多くの人が「行動すること」「実行すること」だと答える。答えが間違っているわけではないが、「それではPDCAのDoはなんですか?」とさらに問うと、「…すること?実行すること?」と怪訝な顔をする。日本語でアクションとドゥの区別を理解することは難しいと思う。言葉は文化の器であり、文化は思考プロセスの違いから生まれる。

PDCAはプロセスのことであり、もともと欧米人の思考プロセスからその概念が生じている。それを日本人が取り入れたのであるから、欧米人と異なる発想や思考プロセスでは理解の仕方に違いが出るのは当然である。日本語世界では表現できないから、表記も発音も英語のまま使っていると考えたほうが良い。

あえて日本語で説明すると、プランすなわち計画をつくり、これを実行(学者の経営用語で言えば実施・統制かな?)する。その結果をレビュー(評価、比較検討、精査)して、当初計画すなわち仮説が正しかった(検証できた)か?もっと良いやり方(あらたな計画・プロセス)がないかを多面的に深く考える。これがCheckである。そして新たな改善策と目標を決めて(Plan)これを達成する意思をもって取り組むことがActionである。Actionすなわち改善のプロセスと理解しても良い。

思うに、日常で使うアクションとPDCAのActionが混同されているのではないか。「アクション」は「動作、行動。俳優の演技」である。PDCAでは、「PLAN」がなければ「ACTION」もない。「PLANを作ればあとは実行のみ。最初のPLANは変わらない。」と思っている人が多いのではないか。ある経営者が「PDはあってもCAがない!」といっているのには理がある。PDCAPD…である。もうひとつ思うのは、PLANの意味である。課題を解決するための基本的考え方と運営方法を決め、目標の設定と達成状況の把握、測定方法、そして改善方法(これも仮説)を決める(考え出す!)ことの意味が共通理解されていない…ということである。「何を書けばいいのか?」という質問が多い。難しく考えすぎている人が多いと思う。もちろん研修や訓練も必要である。

こうした説明は、わたしが米国での経営実務の経験から学び解釈していることである。経営の教科書にどう書いているのか、学者先生はどういっているのかは知らない。あとで調べてみる必要がある。

ちなみにWikipediaでは、Action is effective willと定義している。哲学的には、アクションは効果を発揮する意思のことである。また、社会学的には、多くの人を動機付け対応を促す意味のある行動のことである。とくに対人関係の変化をもたらす行動・言動を言う。

one that not only has a meaning but is directed at other humans and induces a responce.
こうした哲学的・社会学的説明は、わたしには素直に聞こえる。さて、皆さんの解釈はどうなんでしょうか?

最後にHemingwayヘミングウェイの指摘を紹介しておく。

Never confuse movement with action
鋭い指摘である。日本語にすると、「動くこと(Movement)」と「アクション」を混同してはいけない…ということ。欧米人でもActionを誤解することがあるという戒めである。ましてや日本人には共通の理解が難しいことだといえる。

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August 02, 2005

The Five Principles of Water 水五則

Moving of itself, water moves other things. Seeking always to move on its own path, water does not stop. Being pure itself, water cleanses filth of other things. Flowing over obstacles as they are encountered, water increases its power a hundredfold. Filling the great and boundless oceans, evaporating to moisture, becoming rain or changing into snow, and freezing to become a sparkling mirror, water still does not lose its basic nature.

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October 11, 2004

一日は長し されど 一生は短し

八月頃より、仮想世界の住人に戻りつつある。むかし取った杵柄ではあるが、5年、10年は大昔である。新しいツールやサービスが満載で、いったいどれが自分に適しているのかを調べるのに熱中している。

それはさておき、昔のホームページの整理・移行・統合にも時間を割いているが、新生ホームページにちょっと気のきいた言葉はないかと折にふれ考えてもいる。昔から使っていることばは10年以上にもなるのでカビが生えている気がしないでもない。しかし、捨てるにはもったいないので、AboutやProfileに残そうと思っている。

それで表題の言葉を思い出した。むかし中学校の社会か歴史で習った記憶がある。歳をとると昔の記憶がよく思い出されてくるのはどうしたことだろう。記憶を確かなものにするために調べた。

紀元前3000年、メソポタミア文明の遺跡で発掘された粘土板に書かれていた楔形文字の言葉である。世界最古の詩といわれる。太古の昔から人々はそのような感慨をもって自分の人生を見ていたということである。われわれに与えられた人生、すなわち時間は大変貴重なものであるから、心して一日を送らなければならない……。

むかしの人に比べれば平均余命は格段に伸びた。7掛け人生とも言われる。実年齢に0.7を掛けた年齢が、余命が少なかった時代の人たちの時間感覚だったのだろう。とするといまの80歳はむかしの56歳となる。

30台の頃から言い聞かせてきた「人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり……」のことばと符号する。昔の時間軸では、わたしもまだ30代ということである。そう考えるとなんとも若い自分を再発見してうれしくなる(笑) しかし、その時代の平均余命ではあと十数年しか生きられないことに気がつく。あぁ なんと一生は短いのだろう……と、こんどは落ち込んでしまう(苦笑)

そんなことを考える歳になったということだ!と納得するしかない。それがひとつの結論です。

「一日は長し されど 一生は短し」をどこかで使うことにして、とりあえずAboutのなかの「言葉の由来」につけくわえた。

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